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倉屋 そうなんですよ。というのは41年ごろに、『白菊』を送ると同時に規約みたいなのを作ってたもんですから、それを大学に送ったということから始まりましてね。

 

内野 『白菊』をお作りになるのは、費用はどうなされましたか。

 

倉屋 それは私の。

 

内野 ポケットマネー。

 

倉屋 ええ。それで始めたんですけども、そのうちに藤田教授が私にも手伝わせてくれと言われて5万円か6万円いただいたことがあるんですよね。

 

内野 そういう創成期があったわけですが、この献体というものが単なる解剖体の確保以外に倫理的な面が大きかったと思うのですが、全連の最初の目標に献体の倫理の確立というのがありましたので、その辺についてお話を願いたいんですが。

 

倉屋 実は私あちらこちらの大学に頼まれまして、実習のときに話をしたことがあるんですが、学生には深い感銘を与えたようですね。

 

内野 献体は学生の倫理教育には非常に役に立ってることだと思いますね。法制化は途中で不献体になることがないようにとの思いから出たわけですね。全連では46年に発足した当時から、法律の制定ということが一つの目標になっておりました。解剖学会とすれば最初に法制化の運動を始めたのは福島で昭和55年に解剖学会の総会があった時と見てよいのでしょうか。

 

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三橋 それは昭和43年ごろだと思いますが、解剖遺体が足りなくなりまして解剖学会で各支部ごとに遺体関係のそういう委員が一人づつでました。それで北海道から私が。全国のその委員が集まって金沢大学の山田致知教授3)を委員長にして、解剖体委員会という名前に、そのときからなったんですよね。

 

内野 昭和45年の総会のときから。

 

三橋 ええそうです。そのころです。

 

内野 そうすると国会に陳情するに至るまでは随分いろいろな、やはり裏話というか苦労話があるわけですね。

 

星野 山田先生が委員長になられてからちょうど6年目に私がアメリカから帰ってきたら京都府立医大の佐野豊教受4)に解剖体委員会に入らないかって言われ、私は向こうでも長年献体運動をやってたからお手伝いしますと言って委員にさせていただきました。3年経った昭和55年、福島で総会があったときですよ、山田先生が急に僕は丸10年やったけれど僕にはしがらみが多すぎると。星野、君は日本の解剖学会に何もしがらみがないからといって解剖体委員長を押しつけられたんです。(笑)

 

内野 それから、解剖体委員会としてはどういうことをなさったんですか。

 

星野 それで特に献体の法制化の運動に入りましてから小沢先生とかそれから竹内先生には非常に国会側としてお力添えをいただいて、もちろん高木健太郎先生5)がお導きくださったんですけどね。

 

内野 そうしますと日本で最初に献体のことについて国会でお話しになったのは高木先生ですね。

 

星野 そうですね。

 

内野 その高木先生の書かれたものを読みますと、政治の場で献体を取り上げるようになったのには3人の大きな力がある。それは不老会の久野庄太郎理事長6)、朝日新聞の藤田真一7)さん、竹重順夫先生8)であると。

 

星野 そうですね。竹重先生がいらしたら日本学術会議で献体法制化の勧告が出たんですから。あれでもうがらっと変わったわけですよ。

 

内野 ここでこの3人のエピソードなどをご存じの方はお話し願いたいんですが、久野さんて方はどんな方だったんですか。

 

倉屋 それは一人でしゃべってたね。(笑)よく知らないんだけれども、昼飯食べたことがあるんです

 

3)山田致知;(故人)金沢大学医学部名誉教授、元篤志解剖全国連合会会長
4)佐野豊;当時京都府立医科大学解剖学教授
5)高木健太郎;(故人)名古屋市立大学名誉教授、献体推進議員連盟設立発起人
6)久野庄太郎;不老会理事長、初代篤志解剖全国連合会会長
7)藤田真一;元朝日新聞記者
8)竹重順夫;(故人)久留米大学医学部名誉教授、元篤志解剖全国連合会会長

 

 

 

 

 

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